宝くじ当選をはじめとする開運祈願に
宝当神社の縁起が良い『寶當(ほうとう)』の文字にあやかって参拝される方が増え、お参りをされた方の中から宝くじの高額当選者が多数出て、テレビや雑誌などに紹介され、宝くじが当たる神社として一躍有名になりました。
現在では全国から年間二十万人もの参拝者をお迎えしています。
当たりを招く(宝くじ必当運)
金運を招く(金運隆昌)
勝負運、出世運を招く
運と福を招く(開運招福)
参拝し、それぞれの「宝」を頂き運を開きましょう。
神社概要
御鎮座地 | 佐賀県唐津市高島 |
---|---|
御祭神 | 野崎隠岐守綱吉命(のざきおきのかみつなよしのみこと) |
御祭日 | 旧暦 八月二十三日 (綱吉様のご命日にあたります) |
宝当神社御由緒
天文二十三年(一五五四)
信州の国に生誕。
生まれつき才能があり、哀れみの心も厚く、道義もわえあきまえ、礼儀正しく勇気と力を持ち、当時の人は偉丈夫であると称していた。
豊後の大友義鎮(おおともよししげ)公につかえ、数度の軍功著しく、恩賞を戴く。
◎義鎮公は後に大友宗麟(おおともそうりん)と名乗る。
大友義鎮公は、肥前国草の城主として草野鎮永(くさのしげなが)に迎えられる。
元亀四年(一五七四)三月二日
草野城は、龍造寺隆信率いる五四〇〇騎に取り囲まれる。
野崎隠岐守綱吉と源頼久太郎久国(はらせきゅうたろうひさくに)は、やおもてに立ち奮戦する。これにより、龍造寺は勢力を失い敗走した。
草野城はこれで安堵したが、草野家の老人臣は綱吉の勇力を恐れ、ねたみ、主家に綱吉の居場所が無いよう仕向ける。
九月二十一日
綱吉は、やむを得ず三人を引き連れ、夜陰に紛れ小舟を操りここ高島にたどり着く。
十二月二十九日
龍造寺は再度草野城に至り連戦の末、草野城を陥城した。(平原の合戦)
綱吉は高島に移り住みし頃である。
当時世の人は、筑前国吉井の海賊、火山神九郎(かざんじんくろう)の猛悪異名に恐れおののいていた。ある日の事、吉井荊娯(よしいけいご)が神九郎の手下三十余人を率いて、高島の人家を襲った。
穀物や金銭を強奪し、船に積み込み、とも綱を解き、浜辺を去ろうとしていた。
これを聞きつけた綱吉は、浜辺に走り出て飛鳥の如く賊船に飛び乗り、帆柱を引き抜き横一文字に振りました。族徒は、その場になぎ倒され、各自物を取って綱吉たちに向かってきた。綱吉は車輪の如く早業で投げ飛ばし、骨折、転倒、流血負傷を負いながらも、賊徒を倒した。
生き残った者はわずか五人であった。五人は、強奪した物を前にして命乞いをし、 綱吉はそれをねんごろに輸し許した。
その後遠近の賊船は、綱吉の勇力を聞き二度と高島を襲うことは無かった。
天正十二年(一五八五)
綱吉の長男、吉綱(幼名 馬之助)高島において生誕。
天正十三年(一五八六)八月二十三日
綱吉はにわかに病に冒され再起することが出来ず、高島において逝去。(享年三十二歳)
島民は、綱吉の弔いを厚くし祠を建立し島の大権現として祀る。
明治三四年(一九〇一)
島の産業である製塩業が盛んになり島が潤い利益をあげた時、お礼として綱吉を祀った当神社を当島の宝と称え『寶當神社』と記した石造りの鳥居を奉納した。
この頃より宝当神社(ほうとうじんじゃ)と呼ばれ親しまれてきました。